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独断とへりくつblog

人を傷つけずにはいられない、自己中・自己愛性人格への対処

全ての発達障害に関係した事ではないけれど・・

発達障害人格障害、AC(アダルトチルドレン)この3つは、卵が先か、鶏が先かというくらいに、関係があると思う。

親に発達障害的な傾向があれば、

物事の考え方・感じ方に認知的な偏りや歪みが生じやすかったり、またその親自身の社会への生き難さもプラスされたりして、その親自身が人格的にも、人格障害的な傾向になりやすい・・・

そういった悪循環から、その親子関係や家族は機能不全的な関係になりやすく、機能不全的な関係から子は、AC(アダルトチルドレン)になりやすい・・・と

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子供からしてみれば、子供としての自分の気持ちよりも、親の気持ちを優先させられてしまいがちで、親の心の満たされない気持ちやストレスのただのはけ口にされてしまう。

親から心を蝕まれた子供は、自分の心の穴の空しさを埋めるために、何かの依存(アディクション)やパーソナリティ障害、鬱、引きこもりなどに陥いりやすい・・・。

ACでは、成長の過程で心的外傷を負わされたことにより、何とか生き延びて思春期・成人期に達してはいるものの、人間成長のどこかの段階を喪失したために、その好ましくない影響を心身に色濃く残している人を、アダルトサバイバーとも言う。

サバイバー=サバイブ(survive)とは生き残ること)
子供時代に、子供なりに必死に自分を守り生き抜いてきた人のこと

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それでも子供・AC(アダルトチルドレン)の中には、相手の気持ちを考える事が出来るその共感力を持っていれば、相手の気持ちを理解出来る能力として、

優秀なカウンセラー・ケアワーカー・臨床心理士、障害者を支援する人になっていたりする場合もある。

子供時代に色んな苦労をしてきた、AC(アダルトチルドレン)だから、ケアの仕事があっているという単純な意味ではなく、その辛さを時間をかけながらも、乗り越え・心理的に成長出来た人が、良い意味で人のケアが出来るようになってくる。

そういった人は「ACのサバイバーである事を主張する必要の無くなった人」スライバーでもある。(サバイバー=スライブ(thrive)は成長するという意味)

スライバーは、自分の選択した事に責任を取れるし、他人(世間)の期待に操られない。

だから、スライバーの人の共感力とは、相手に同化や同情する事じゃない。と解ってるし、相手との、境界線・つまり心理的距離を適度に取りつつ、相手に共感力を持つことも出来る。

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世の中には、発達障害傾向な親、つまりは、物事の考え方・感じ方に認知的な偏りや歪みが生じやすかったり、またその親自身の社会への生き難さもプラスされたりして、自己愛人格パーソナリティや共依存の人が割にいるが、

別の言い方をすると、この親達の子供・AC(アダルトチルドレン)の人達にも、物事の考え方・感じ方に認知的な偏りや歪みが生じやすい。
そして、サバイバー止まりの人も多いと感じる・・。サバイバー止まり・・。スライバー(成長した人)に成りにくい。

成長する・乗り越えるのは、とても苦しくて努力の要ることでもあるし、ましてや物事の感じ方や、認知的な偏りや歪みが生じやすい、発達障害傾向の人にとって、

自分の感じたこと・考えた事のみで、常に主観的思考が強く、客観的思考が苦手であり、また主観的思考が強いと、自己愛人格(パーソナリティぽくなりやすい。
また共感力が乏しいので、他者との同化と支配の共依存のままでいるか・・になってしまいやすい、特性を強く持ってる・・。

なので本人が、この自分の特性を認めない限りは、なかなかスライバー(成長した人)に成りにくい。と思う。


スライバー(成長した人)とは、自分の選択した事に責任を取れるし、他人(世間)の期待に操られない。

自分の選択した事に責任を取るという事は、自分の過ちを自分できちんと受け入れるということ。

他人(世間)の期待に操られない。というのは、自分を優位に見せたり、良い評価を求めすぎたりしない。
(世間)の期待を必要以上に気にしてないから、「自分は特別な人間だという、妙な自己愛人格(パーソナリティ)にもならない」

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共感力のある人は、相手の善意も悪意も、客観的に公平に見極める事が出来る。
また相手の善意を利用したり、また相手の怒りを客観的に受け入れる事も出来る。けして、主観的=自己中心的思考で終始しない。

↓(京セラ名誉会長稲盛和夫さんの言葉より)

私は高校時代、なぜこの世に自分は生まれてきたのか、生きている価値はあるのか、自分のことを必要としてくれている人はいるのか、自分を愛してくれている人はいるのか、いったい俺は何なんだと、深く思い悩んでいた時期があった。

子供の頃から周囲と信頼関係ができなかった私は、この世に遠慮があった。安心できる居場所が無かったのである。

しかし、長じるにしたがい、居場所は与えられるものではなく、自ら創りだすものと知り、視野が広まったのである。

周囲との信頼関係も同様である。また、愛されるということは、愛したいという思いからしか生まれないことも知り、人よりも時間はかかったけれど、周囲に溶け込める自分ができてきたのである。

しかし、年代や置かれた立場で悩みは変わるものである。人は、その人の生きてきた環境や、それまでに培われた心によって、受け取り方、考え方が当然ながら違うものだ。

こちらが良かれと思ってしたことが、人によっては感謝となり、逆に憎まれもするのである。

また、同じ相手でありながらも場面が変わった瞬間に、天使から悪魔に豹変することもある。

人は多面的な生き物であり、矛盾の塊でもある。

どこの面を叩くのか、それによって、幸せや不幸せのスイッチがオンになったりもするのである。

ただ確かなことは、悪魔の顔を見せたとき、それまでの人間関係は、憎しみに変わるということだ。

言葉は相手の心に突き刺さり、傷つける道具となってしまう。

その逆であれば、言葉は人を生かし、活かすものであり、未来までも創りだせるものなのである。